2. 『中部の山渓』のころ(1982)

パックフレーム必要ナシ!

 こんなにも憧れたバックパッキングではありましたが、さすがの当方も、自分の周囲環境に『バック…』の世界は直接持ち込めないらしいことに気づきます。なにしろ『バック…』で用いられている写真のほとんどは、アメリカ・ロッキー周辺(ヨセミテ&イエローストーン公園内が主)でのもの。マスを釣るようなフィールドも平坦でスケールが大きく、パックフレーム使用に適します。当方が馴染んでいた鈴鹿山系(所属山岳部でのメインフィールド)の川は、いわゆる山岳渓流であり、急勾配で藪こぎ・ヘツリが必須。また登山道を使えばふもとの車止めから3時間ほどで源流帯に到達できるため、軽快な日帰り・沢登りスタイルが適します。正直パックフレームの必要などありません。程度の差こそあれ、日本では一部を除いて似たようなものではないでしょうか。
 もちろん筆者の芦沢さんもそれらは承知の上、発祥地の様をそのまま紹介することで、バックパッキングの「スピリチュアル」な部分を伝えたかったのではと想像します。あとは受け手が自由に咀嚼・アレンジすればいいわけですから。しかしコッチはアウトドアも何も未体験でしたし、本中の雰囲気にストレートに憧れちまったものですから、なかなかスレ違いに気づかなかったというワケです。

憧れのカーティスクリーク
 そんなとき『中部の山渓』を読みました。副題がスゴイ。『ザ・フライフィッシング すべてはここから始まった』。これはいわゆる釣行記集で、筆者の吉田哲人氏は古くからフィッシュ・オン誌(中部ローカル釣り雑誌)で執筆活動を行っていたオールラウンド的フライフィッシャーマンです。本中では中部地区各所の釣りを紹介していますが、このあたりに多く見られた、林道の部分的崖崩れやダム設置によってクルマで入れなくなったフィールドに、バックパッキング・スタイルを用いてアクセスしています。時代からも吉田氏は『バック…』の影響を受けたと想像しますが、『中部…』の中でU.S.流バックパッキングを身近なフィールドに落とし込んだスタイルを見せられた時、バックパッキングも自分の周囲環境にマッチさせて適当に楽しめば良いんだ!と初めて気付かされました(遅すぎ!)。
 で、読後たまらなく鈴鹿山系に行きたくなり、とはいえすでに禁漁期でしたから、当時流行り(?)だった発眼卵放流を仲間と行います。土曜日にパックフレームを部室に用意しておき、授業後素早く着替え、そのまま電車で鈴鹿山系に急行。あらかじめ手配していたアマゴの発眼卵を鈴鹿山嶺・西藤原の養魚場で受け取り、放流の簡単なレクチャーを受け、山に入ります。ところがこれまた当時流行りだった「カーティスクリーク(=秘密の川)」という言葉に惑わされ、人が入りにくそうな山系深部を放流点にしたため、到着まで思いの外時間がかかり、酸素不足か水温上昇なのか、タマゴの色が微妙に白っぽくなってしまった気が…。
 とはいえそれには目をつぶり、バイバートボックス(虫カゴ改の孵化床)をセット、教わったとおりにタマゴを置きました。その夜は放流点の河原で幕営しましたが、「とうとう僕らのカーティスクリークが手に入った!」などと語り明かしたワケです。

やっぱりライギョ中心の釣りライフ
 ちなみに後日、バイバートボックスを回収に行くと、ボックス内には孵化できなかった卵はあったものの、数尾の稚魚が泳ぐでもなく漂っており、また死卵の数から計算すると、孵化は望外に成功し、稚魚の多くはすでに流れの中に泳ぎだしたと思われ、これまた士気上がるわけです。とはいえ今考えると、なんとなく環境破壊な気がしないでもありません。
 それはさておき驚くべきは、当方含め発眼卵放流を行った仲間全員が、この時点で渓流魚を釣った経験がないことです。実際の釣りは、やっぱりライギョ中心でしたし、フライの道具はずいぶん前から揃えてはいましたが、ライギョと同一フィールドでの使用でしたから、オイカワ、カワムツ、ウグイ、といった世間的に「雑魚」としてカテゴライズされる獲物だけを釣っていました。やってることの順序が大いにおかしいのですが、本の読み過ぎで頭でっかちになっていた当方は、自分のキャリアや周辺フィールドに符合しない行動をとるのが常でした。

   
以降、続きます






バックパッキングなれそめ記

「中部の山渓 ザ・フライフィッシング
すべてはここから始まった」
東海釣りガイド社
1982年刊

目次部分
庄川、小鳥川、愛知川、巴川、尾上郷、奈川渡ダム、御母衣ダム…といった黎明期の中部を代表するフィールドが並ぶ。